2019年02月28日

2,12月20日 日曜日 0時15分 熨子駐在所




熨子駐在所の鈴木はこの時間にはまだ就寝していなかった。
自宅から持ち出して来た古ぼけたアルバムを手に取って、彼はその一ページをゆっくりとめくり目を細めていた。
五日後に控えたクリスマスには娘の洋子が東京から帰郷する。自分に紹介したい男がいるそうだ。妻はどういう男かは知っている。
一週間前、妻の清美がこの駐在所を訪れて娘がつき合っている男について話をしてくれた。
「洋子と同じ会社に勤めている、誠実そうな方よ。」
二人はつき合って三年。娘が男とつき合っている事を鈴木は全く知らなかった。
現場での仕事に燃え、担当地域の治安の安定が鈴木にとっては一番の関心事だった。道案内から始まり、警邏活動、ときには窃盗犯や痴漢の確保など、警察組織の末端に所属しながら彼はその自分に課せられた任務に誇りを持っていた。
―自分は警察官としての仕事の事しか頭に無かった。
今まで家庭の事に無関心だったと言われても仕方が無い。家族の事は清美に任せてあるつもりだったが、娘の縁談を自分に知らせるときの妻の寂しそうな表情を見て、初めて自分の家庭に対する無責任さに気がついた。
思い起こせば洋子の事は何も知らない。大学までは地元の学校に通わせていたので、ある程度の事は把握をしていたつもりだったが、基本的に鈴木は仕事の虫。洋子の事について妻から相談されたりもしたが、正直なところ煩わしいとさえ思っていた。
洋子が東京の方へ就職してからというもの、家庭の事は清美に任せるという考えが災いしたか、自分と洋子とは全くの疎遠である。洋子の情報は清美経由で聞いているつもりだったが、記憶に残っていない。彼女が銀行に勤めているとは聞いていたがその銀行名も、現在洋子が26歳である事も、正直忘れていた。
―済まなかった。
気がつけば鈴木自身は一年後には定年に達する。同期の人間は皆、警部や警部補に昇進し、退官を向かえようとしている。片や鈴木は巡査部長のままだった。鈴木は地域に密着した現場での仕事が好きでたまらなかった。そのため彼は高校卒業後警察に入ってから、今日まで昇進試験をあまり積極的に受けなかった。管理職になる事を嫌ったためである。妻からは何度も昇進試験を受けてくれと言われた。しかしその手の要望は無視してきた。今まで家庭を顧みず、自分の好きな仕事だけに人生を捧げてきた。清美の寂しそうな表情を見た時、自分の自己中心的な人生がリセットされた感覚を覚えた。
鈴木の心の中には様々な思いが去来していた。
『本部より関係各署。』
瞬間、鈴木に緊張が走った。アルバムに落としていた目線を部屋の隅に設置された無線機に向ける。
『熨子山山中の小屋より遺体と思われるものを二体発見との通報。所轄は直ちに現場へ急行せよ。』
鈴木の表情が厳しいものに変わった。アルバムを閉じ、急いで無線に口を近づけた。
「こちら熨子駐在所。現場の目印になる情報をお願いします。」
『熨子町の集落からそのまま山頂へと向かう道の途中に通報者がいる模様。』
「了解。向かいます。」
鈴木はそう言うと寝間着姿から制服に着替え駐在所を飛び出し、止めてあるミニパトカーに乗り込んだ。エンジンをかけアクセルを踏み込み勢い良く発進した。熨子町の集落まではここから約五分。熨子町から山頂へと向かう道は一本しか無い。
車に乗ってからも継続的に通信指令室からの指示は出ている。県警本部の対応は素早かった。本部から鑑識を含めた応援が二十名程度出発したようだ。加えて金沢北署の捜査員も投入されて、捜査の体勢を整えつつあるのが無線を通じて伝わって来ていた。二名の遺体が一度に発見される事など、この地方都市では珍しい。普段聞き慣れない言葉が飛び交う無線のやり取りが、その事の重大さを物語っていた。
「事件か心中か。」
彼は誰に言う訳でもなく呟いた。
鈴木はパトカーを手足のように操り、注意深くそして俊敏に県道を駆け抜ける。
―何か妙な胸騒ぎがする。


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2019年02月21日

1,12月20日 日曜日 0時35分 熨子山山頂展望台




眼下には渋い夜景が広がっている。
ここ金沢は藩政期より城下町として栄えた地域。当時の歴史と伝統が今も色濃く残っている街のため、日中は観光都市としての顔を全面的に出す。
観光名所には人が集まり賑やかさを創出する。しかし夜になればそれは一転する。
市内全域は水を打ったような静けさに覆い尽くされる。
その空気の重量感と質感は重く、妖しさを内包している。
間宮はその妖しさに包まれた街を、熨子山から眺めていた。
熨子山は金沢の北東部にある山で、そこから見る夜景は美しかった。
妖しげな空気の中に点在する街の照明群。それと相対するように闇を演出する寺院群や田畑。
対照的なものが絶妙に混ざりあい、陰と陽のおもむきを感じることができる。
熨子山は金沢市街地から車で約三十分の距離にある。市街地から少し離れたところにあるが、整備も行き届いており休日には地元の家族連れが遊びにくるようなところだ。
だがここは夜になると交通量は極端に少なくなり、外部からの侵入者を拒むかのような空気をもっていた。
十二月。
日が沈むと冷えきった空気が肌を刺す季節だ。
熨子山の山頂にある展望台で間宮は静寂に包まれていた。
そっと彼に身を寄せる者がいた。彼と同じ会社に勤務する桐本だ。
今日この時間にここを訪れる者は彼等以外になかった。
彼女の頭を撫でながら、間宮は眼下の金沢の夜景を眺めた。
麓から幾度か曲線を描いてこの場所に来ることができる。
間宮はここまでの道を市街地から順を追って見ていた。
彼の視線が熨子山の中腹にさしかかったとき複数の赤く明滅するものが登ってくるのが目に止まった。
―パトカー?…そういえば10分程前にもパトランプが見えた。
その光は着実に山を登ってこちらの方に向かってきている。
不審に思った間宮は頃合いを見て、この場から立ち去ろうと考えた。
「由香。」
彼は唐突に桐本を抱きしめた。
「ずっとこうしていたいよ。」
お互いの息遣いと脈打つ音だけが耳に入ってくるほどの静寂。抱きしめ合う中、間宮の鼻腔に入り込んでくる桐本の香りはいつもよりも香しく感じられた。
間宮に覆いかぶさられるように抱きしめられていた桐本の体は小刻みに震えだした。
「ごめん…こんなところに長居させてしまって悪かった。寒かったよね…。」
すると彼女の体の震えが大きくなった。その震えは徐々に大きくなってくる。
「え…?大丈夫?」
思いの外彼女を寒い目に遭わせていたのだろうか。まさかこの寒さで体調でも悪くさせてしまったのだろうか。
それは彼の大きな誤解だった。
桐本は間宮の肩越しに見ていた。
向こう側から白いワイシャツを着た男がこちらを凝視しているのを。
その男が赤い血で染まったハンマーを持ってこちらにゆっくりと近づいてきているのを。


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